明治元年五月十四日の午ひる過ぎ
明治元年五月十四日の午ひる過ぎだつた。
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「官軍は明日夜の明け次第、東叡山彰義隊を攻撃する。上野界隈かいわいの町家のものは々そうそう何処どこへでも立ち退のいてしまへ。」――さう云ふ達しのあつた午過ぎだつた。
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下谷町したやまち二丁目の小間物店、古河屋政兵衛こがやせいべゑの立ち退いた跡には、台所の隅の蚫貝あはびがひの前に大きい牡の三毛猫が一匹静かに香箱かうばこをつくつてゐた。
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戸をしめ切つた家の中は勿論午過ぎでもまつ暗だつた。人音ひとおとも全然聞えなかつた。
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唯耳にはひるものは連日の雨の音ばかりだつた。雨は見えない屋根の上へ時々急に降り注いでは、何時いつか又中空へ遠のいて行つた。
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猫はその音の高まる度に、琥珀こはく色の眼をまん円まるにした。
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竈かまどさへわからない台所にも、この時だけは無気味な燐光が見えた。
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が、ざあつと云ふ雨音以外に何も変化のない事を知ると、猫はやはり身動きもせずもう一度眼を糸のやうにした。
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そんな事が何度か繰り返される内に、猫はとうとう眠つたのか、眼を明ける事もしなくなつた。しかし雨は不相変あひかはらず急になつたり静まつたりした。八つ、八つ半、――時はこの雨音の中にだんだん日の暮へ移つて行つた。
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すると七つに迫つた時、猫は何かに驚いたやうに突然眼を大きくした。同時に耳も立てたらしかつた。が、雨は今までよりも遙かに小降りになつてゐた。